hatuncle007’s diary

百年先の日本を考えよう

「十七歳の硫黄島」秋草鶴次著(文春新書)

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この正月一冊の新書を読んだ。僅か262ページの新書であるのに実に重い重い本であった。何回も何回も休み休み読むことを余儀なくされた。恐らく筆者もこの本の出版を何回も何回も自問自答したに違いない。恐らく62~3年前祖国のために過酷にして劣悪な状況下で敢然と国のために戦い殉じた英霊に後押しされ出版に漕ぎ着けられたのではあるまいか。先ずは右手ご不自由な中執筆された著者に敬意を表したい。
 <秋草少年兵の兵歴>
昭和17年09月 1日 横須賀海兵団に入団(秋草少年十五歳)
 同上 11月 1日 海軍一等水兵に昇進し横須賀海軍通信学校に入学(同期生728名)
昭和18年07月22日 同上海軍通信学校卒業。同日付横須賀海軍通信隊勤務を拝命
昭和19年06月18日 第二南方方面派遣艦隊司令部赴任を拝命。
赴任直前二泊三日の休暇与えられる。
昭和19年07月28日 赴任地は硫黄島であることを知る。
 同  07月30日 秋草水兵(17歳)等硫黄島(南方諸島海軍航空隊壕電話室)に着任
昭和20年03月01日 秋草水兵左脚大腿部貫通&右手人指し指中指薬指損傷の大負傷負う
昭和21年01月04日 浦賀に帰還 
 硫黄島(東京より南南東1250匈ご濱?笋22km南北8凖貔0.8~4.5km)は既に本土の防衛前線として地下壕(当初の計画では延べ28kmが予定されていたが玉砕戦までに完成したのは18kmとされている)の要塞化が過酷な環境の中で鋭意進められていたことも秋草少年兵らは全く知らされていなかったのである。硫黄島守備隊員総員二万一千余名の国土防衛の空前絶後の凄惨なる戦闘を半年後に展開する事になるなど想像だにしていなかったに違いない。
 秋草少年兵の手記は昭和二十年一月二十四日から始まる。戦友のこと、地下壕のこと、通信・偵察任務のこと、米軍の圧倒的物量下での日米の殺戮戦、被爆、3月1日敵艦艦砲射撃による大負傷、渇き、飢餓、戦友の死、玉名地区隊総攻撃置き去り、そして意識喪失、その後の米軍の最後の掃討作戦で発見収容され意識を取り戻したのはグァム島の捕虜収容所であった。
 筆舌に尽し難い戦闘の惨たらしさを殊更に並べ立てたものではなく秋草少年兵の目に映った状況と五体に刻まれた原体験を深い記憶の奥底から紡ぎ出し冷徹なまでに客観的に記されたもだけにこの手記は読み手により真実を知らしめて余りある。
 戦争とはいえ兵士も誰一人として敵兵を虐殺したくってしている者は居ないに違いない。だが併し米軍は地下壕に潜む負傷又は疲弊し切った日本兵に容赦なく水攻め、油攻め、ガス攻め、火責めと襲い掛かる。生死を彷徨う旧日本兵に想いをいたす時今日の我々の生き方に思いをめぐらせずには居られない。
 よく「時代が違う」と謂うが「時」とは「今」の連続であって「今」生きる事において現在を生きている否生かされている我々と大東亜戦争で玉砕して行った旧日本軍の兵士たちの生きた「あの時代の今」と「時」に限って云えば違いなど豪もあり得ないのである。もし「今」について錯覚があるとすればそれは「生」と「死」と「祖国」に対する認識の深さが違っているのではあるまいか。生と死と祖国とが同次元的且等価値として認識され瞬時たりとも脳裏から離される事が無く散華した旧日本兵
 右上腕を切断した兵士は言った「戦争とはまず生きることだ、飲まず食わずでいても生きているだけでいい、多く生き残った方が勝ちにつながるというもんだ」<P.116>。
 2月23日午前10時過ぎ摺鉢山山頂に星条旗が立てられるが翌24日朝再び日章旗が山頂に翻る。然し午前8時過ぎには日章旗は焼かれ星条旗が再度立てられる。25日早朝三度摺鉢山山頂に日章旗翻るも激闘の末午後1時過ぎ星条旗に取って変えられる。26日朝以降は日章旗を摺鉢山の山頂に見る事は無かった・・・と手記は記す。
 愈々敵の攻撃は玉名地区に迫る。親友の影山同年兵は言う「ここが与えられた死に場所だ、最後を綺麗に生きよう、どうせ早いか遅いかの違いでしかない」<P138から部分抜粋>
「いつのまにか俺の肩や指先からも、水芸のように、青白い燐が光っては消えている。肩から発する燐は、首筋を渡って頬や耳を掠めていく。このままではいけない。完全に虜になってしまう。いまが正念場だ。冷静になろうと目をつむった。そうだ、おばぁちゃんがよく唱えていた呪文があった。マンジェロコ、マンジェロコ。六根清浄、六根清浄。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。オンボッキャ、オンボッキャ。続けざまに唱えた。ともかく一生懸命に並べたてた。・・・ようやく、少し違った場所に出た。・・その付近一帯にも、負傷兵がゴロゴロと寝かされ、悶え苦しんでいる。・・しかしこの世で、一番小さい虫の声よりもなお小さい心の虫でさえ、生きていたいと願っている。1日も早く死にたいなどと本当に心から想っている人は一人もいないだろう。助けがきてくれる、内地へ帰れるよと言葉をかければ、嘘と知りつつ誰もが微笑みを浮かべた。」<P.205~207部分抜粋>。
 摺り鉢山が争奪されて1ヶ月、三月二十五日夜栗林中将兵団長隊の決死の総攻撃で硫黄島の玉砕戦は終った。戦死者旧日本軍1万9900余名、戦傷者1千名、捕虜1千33名、米軍戦死者6821名、戦傷者2万1千865名。米軍のスミス中将をして「この戦闘は過去168年の間に海兵隊が出会った最も苦しい戦闘の一つであった」と言わしめたのである。
 この硫黄島の激戦がその後の戦況に計り知れない影響を与えたことは言を俟たない。我々が絶対忘れてはならない事は硫黄島で散華された方々は「祖国」のために戦い死んでいったという厳然たる事実である。このことに思いを致す時、散華されていった英霊に対し改めて深甚なる哀悼と感謝のまことを捧げると共に敬虔なる鎮魂の祈りを捧げずには居られない。合掌。