hatuncle007’s diary

百年先の日本を考えよう

「不考」のすすめ・・・

17世紀初頭西欧において近代哲学を切り拓く二人の思想家が現れた。「人間は自然の中で最も弱い一本の葦にすぎない、しかしそれは考える葦である」と瞑想録でパスカルが云い、デカルトは考え抜いた末に「我思う故に我あり」(方法論序説)との絶体観念に到達した。

我が国にも明治維新以降西欧文化文明が堰を切った洪水の如く押し寄せ爾来学問にあつても西欧一辺倒となり精神までもが西欧崇拝教に蝕まれてしまった。何とも情けなく窮屈極まりない話ではないか。昔知人から「考えろ考えろと言われて来たので何時も考えるように努めてきたが大したことも出来ずに気が付けば80歳になっていた」との某氏の話を聞かされたことがあったが考えすぎも善し悪しに思えてならない。

今年も自殺者が3万人を既に超えているそうだが我推を許して貰うならばこうした方々は多分考え過ぎだつたのではあるまいか。時には何も考えずにぼーっとして大自然の息吹を五感で受け止めて貰っていたら若しかすると結論も変わっていたかも知れないと思えてならない。 

最近、不図気付かされたことに「我思う、故に我あり」ならば「我思わざれば、我無し」が成り立つはずという結論だ。己が思考を一時的に止めたところで己は元より何かが無くなる訳ではないので何も心配することはない。若し「物事に行き詰った時」には「全ての思考を一時的に停止して何も考えないこと」(「下手な考え休むに似たり」)の方が物事の解決の「気付き」の糸口となるのではないかと思う。肩の力を抜き瞑想するといろいろな雑音雑念が遠のき己の心臓の鼓動が確かさをもつて感じられ「生きている、生かされている」と云う実感を得る事が出来る筈。生かされている。何によつて生かされているのか。「他力」によつてである。他力とは時には親であり、師であり、兄弟であり、恋人であり、友であり、大自然であり、神であり、仏である。これらに自分の全てを時には委ねて先ず「楽」になっては如何であろうか。

今一つは思考を超えた想念、呪念である。「行き詰り」の主要な要因を探り、その要因から解き放されることを、或いは目標が実現することを全身全霊をもつて昼夜を問わず念ずるのである。俗に云われる「想念は必ず実現する」である。

今日は大晦日、明ければ元日。年に一度くらい「ボーッ」として居たいものである。

参照
http://www.j-theravada.net/pali/key-pancakkandha.html