hatuncle007’s diary

百年先の日本を考えよう

赤穂浪士と浄瑠璃坂の仇討

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元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士47人が主君浅野内匠頭長矩の無念を晴らすべく高家旗本吉良上野介義央邸に討ち入り本懐を遂げた事件は広く人口に膾炙しているところであるが、実はこの事件の30数年前類似した事件が起きていたことは最近はあまり聞かない。

それは江戸3大仇討ち事件の一つ、知る人ぞ知る「浄瑠璃坂の仇討ち」事件である。この事件は寛文12年(1672年)元宇都宮藩奥平家の奥平源八ら42人が源八の父の仇である奥平隼人を討った事件である。

ことの起こりは寛文8年(1668年)下野興禅寺で宇都宮藩の前主・奥平忠昌の法要の場で家臣奥平内蔵允(1000石、源八の父)と同奥平隼人(1300石)の2人がささいなことから口論し、度重なる面罵に耐えかねた内蔵之允が隼人に抜刀し返り討ちに遭い刀傷を負い、同輩・兵藤玄蕃(1000石)らの仲裁で双方それぞれ親戚宅へお預けの身となったがその夜内蔵允は切腹した。その後隼人へは改易、嫡子源八(12歳)らには家禄没収の上追放が申し渡された。

この処分を不公平とし追放された源八とその一族に同情する者が続出、これらが源八一党を形成し仇討を決意し3年余後に仇討ちを成し遂げた事件。

源八ら一党は幕府に出頭して裁きを受ける。大老井伊直澄は源八の殊勝な態度に感銘し死一等を減じて伊豆大島流罪を命じられたが源八は流罪から6年後天樹院(千姫)13回忌追善法要による恩赦で彦根藩に召抱えられたと云うもの。

赤穂浪士には何故特赦がなかったのであろうか。僅か30数年の時の流れが46士の生死を分けたのであろうか。敗戦後65年、この間に放擲された日本人の矜持と徳目、例えば忠義、忠節、独立自尊、親孝行、滅私奉公、勤勉、質素倹約、質実剛健等々。1億総利己自己中心主義者となり果てた日本人。国に忠義を尽くし国に殉じた英霊たちはこの時の流れを如何に問わむや。

★上記写真は新潟県新発田市内を練り歩く「子供義士たち」読売新聞より)
★参照http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E