hatuncle007’s diary

百年先の日本を考えよう

大阪の「放火殺人事件」と大人の未熟化を糺す。

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過日また大阪で「放火殺傷事件」(死者4名、負傷者19名)が発生した。昨年10月の個室ビデオ店(大阪市浪速区)の放火事件(客16人死亡)に次ぐ極めて卑劣な無差別殺人事件で到底看過することは出来ない。特に怒りを超えて切ないのは今回の此花区のパチンコ店放火殺傷事件にしても先の個室ビデオ店にしても容疑者が共に40歳を超えた大の大人であることだ。今回の高見素直容疑者は41歳、先の小川和弘被告は46歳と言う。大人の未熟化が言われるようになって既に久しいがこの体たらくぶりは日本人の「人間失格」の第何章にあたるのであろうか。

今回を含め過去の類似無差別殺人事件にあつても犯罪者等は異口同音に殺す相手は「誰でもよかった」等と良心の呵責の念もなく供述していることだ。一連の新聞報道によれば今回の高見容疑者(41)は「人生に嫌気が差した」「誰でもいいから殺したいと思った」、先の小川被告は離婚や早期退職で人生に挫折し「生きるのが嫌になつた」、また昨年3月の茨城県土浦市の「8人殺傷事件(金川真大被告25)」でも、「誰でもよかった」、更に同年6月の東京秋葉原の「通り魔事件(7人を殺害)加藤智大被告(26)」も「世の中がいやになった、誰でもよかった、社会が悪い」、そして同年7月の東京都八王子市の「駅ビル殺人事件(女性2人死傷)菅野昭一被告(34)」も「大きな事件を起こして両親を困らせようと思った」などと供述しているのである。

こうした常軌を逸した殺人自体を目的とした「殺す相手は誰でもよかった」などとする供述が罷り通っていること自体に戦慄を覚えざるを得ない。言うなれば彼等犯人の存在自体が社会の恐怖要因であり、謂わば「テロ」を日本社会が内在させている証左でもあるからだ。かかる無差別殺人事件=テロ行為の原因を「忍耐力の欠如」だの「規範意識の欠如」だの、果ては「社会的疎外感」だの「自殺願望」だのとして「精神鑑定」などを通して個人的特異性にその原因を求めても埒は明かないのではありますまいか。

敗戦から15年、昭和30年代後半からの始まったとされる世界に類を見ないほどの日本の高度経済成長は1億総中流化社会を産み大学教育のマスプロ化を一気に拡大した。この時期家庭ては核家族化が急進し「仏壇」なき世帯も激増した。かかる中、義務教育機関にあつては個人的人権や個性の尊重やら個人の自由の野放し、競争の排除、学習時間の短縮など鋭意進められたのではなかったか。今となってはかかる教育環境が齎した「負の効用」は計り知れない。「学力低下」程度で収束するのであれば未だ救いもあるであろうが今や「人間力」そのものの低下が顕現化しているのではありますまいか。

今年2月塩谷文部科学相は「心を育む5つの提案」を示し学校の教育理念を示す「校訓」の活用を促進すべく「推進会議」まで設置したとのことであるがこんな茶番で何がどうなると言うのだろうか。ここは義務教育の原点である「人づくり」、即ち、戦前の「教育勅語」や「道徳」や「修身」の精神に立ち返り日教組や左翼政党によつて歪められた義務教育を抜本的に見直し教育を真の「国家百年の計」に適う物に改革すべきと思料されるが如何でありましょうや。

蛇足ながら児童のしつけや教育の要諦は「『つ』のつく歳のうちに」(森信三)親や教員が確り行うことが何より肝要と思われるだけに無差別殺人などの凶悪犯についてはそれこそ国家的プロジェクトを早急に立ち上げてでも彼等の幼少期(概ね10歳まで)の家庭や地域社会や学校環境並びに対人関係を追跡調査し「心の闇」の部分を解明して具体的対策の実施を切望するものである。