hatuncle007’s diary

百年先の日本を考えよう

「子どもに携帯電話は不要」?

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 子供には「ゲーム機」より悪い携帯電話!

石川県議会において6月17日、小中学生に携帯電話を持たせない「子供に携帯電話はダメ、保護者の努力義務」を盛り込んだ『いしかわ子ども総合条例』の改正案が議員提案で提出され、今月29日議会与党の賛成多数で可決される見通しとのこと。可決されれば全国で初めての条例となるそうだ。「但し書きや無罰則規定」には多少問題を残しているものの他の都道府県にあつても石川県に倣って貰いたいものである。

子どもの携帯電話所持については往々に「有害サイト」が問題視されるがそんなところにこの問題の本質を置いてはならないと考えるものである。文部科学省や日本PTA全国協議会が小6(PTA小5)、中2、高2の児童生徒を対象に昨年実施した「子供の携帯電話利用調査や子どもとメディアに関する意識調査」等の公表結果によると所有率小学生24.7%(PTA20.4%)、中学生45.9%(同42.4%)で、内、殆ど使わないが小学生で32.3%、中学生で9.2%、1日のメール数30件以が小学生で22.8%、中学生が61.3%にも上る。問題なのは携帯電話を持つ小5の約4人に1人が「メールの返信がないととても不安」(PTA)とか同小5の18.6%が゜「つい長電話をしてしまう」(同)と答え、且つ23時以降の就眠が小学生で64.3%,中学生で74.8%にも上っている事である。

大人社会に於いても「携帯電話」はIT革命とやらの旗手として利便性を良いことに「私」をいとも簡単に「公」の場に持ち込ませ、公私のケジメを放擲させ傍若無人のマナーに謂わば市民権を付与する恰好となって仕舞っている。かかる「通信革命」が我々の社会生活に与える正負の効用の検証も為されないままに国も親の身勝手を良いことに子供たちにまで「携帯電話」を普及させて子供時代のみに許された貴重な時間まで侵食し生活のリズムを大きく狂わせ、遂には「携帯電話依存症」症候群を大量に生み出しているのである。

嘗て子供らの間で「ゲーム」機が流行った折りに余りにも子供たちがゲームに夢中になったことからゲーム機有害説が流布し、あっと言う間にゲーム機ブームは沈静化した。しかし今思えばゲーム機はあくまで「遊び」の玩具であり子供の成長には多分必要不可欠な代物であったかも知れない。ところが携帯電話はハイテク技術を凝縮し「出会い系」サイトなどの有害サイトを付帯したところの文明の利器ゆえであろうか全く事情が違い始末が悪い。ゲーム機以上に子供たちのこころまでデジタル化して底無しの「携帯電話依存症」へと誘い続けているのである。

何故大きなリスクまで抱え込んで携帯電話を子供たちにまで持たせなければならないのであろうか。一つには児童生徒らの「携帯電話依存症」による弊害を当事者も国家も親たちも過小評価して、産業経済振興や利便性、子供の権利などがすべてに優先するとでも考えているのではあるまいか。子供らのが蒙る弊害(時間の遺失は元より精神的ストレスの拡大化、乃至発想力、想像力、対人感情の喪失、更には各種トラブルetc.)の総量は恐らく嘗ての「ゲーム」機の比ではないものと思料する。恰も「ゆとり教育」が子供たちに齎した負の遺産のようにである。

ここに兵庫県尼崎市教育委員会が今年実施した「学力・生活実態調査」(平成18年~20年度の3年間、追跡対象中学生約3000人)の結果を紹介したい。ⅰ.学力の推移と携帯電話所持の関係(偏差値):(イ)所持しない生徒の男子=52.9、女子=53.0 (ロ)所持している生徒の男子=48.9、女子=49.1。他の教育委員会でもこうした生きた調査を確りやって貰いたいものである。

携帯電話の一般的普及は精々この10年足らずでしかない。子供には携帯電話の必要性など皆無に等しい。もし必要だと言う方がいたら伺いたい。貴方の子供時代に携帯電話が必要でしたかと。子供たちの登校下校時の防犯防災を言うのであれば「ポケットベル」や「警報ベル」で事足りるのではあるまいか。釈迦に説法を百も承知で子供を持つ諸兄姉にお願いしたい。どうぞ子供たちを携帯電話から解放してやって下さい。そうしないと日本の未来までが駄目になりますよ。折りしも今年4月所謂「ゆとり教育」世代の初期組みが新社会人となった。そこで何が起きているのかと言えば会議に集中出来ない、独創性に欠けコミュニケーションが上手く取れないばかりか会議中に「メールをする」者が三分の一にも上っていると言うではありませんか。

子どもの携帯電話問題を矮小化せず石川県野々市町の「ののいちっ子を育てる町民会議」が平成15年から「小中学生に携帯電話は不必要」運動を始めて子供たちの非行を激減(15年度の非行数184件が20年度は11件に減少)させた様に地域社会の問題として地域社会が正面で捉え直すことが求められているのではあるまいか。謂うまでもなく子どもは「我が児であると同時に社会の子」であるのだから。